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Sep 19
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「そもそも自衛隊自体が違憲なんだし、集団的自衛権が違憲でも別にいいだろう。憲法なんてその程度」という意見があるが、これは少し違うと思う。

第9条2項に書かれている「前項の目的を達成するために(中略)戦力を保持しない」という所謂「戦力不保持」の条項を見ればわかる通り、まず前項を見なければならない。
第9条1項には「国際紛争を解決する手段としては」「武力による威嚇及び武力の行使」を「放棄する」としている。

つまりこれは「国際紛争を解決する手段として」の戦力を放棄してるのであって、そうでないことに行使する戦力(外国の侵略や災害救援など)は放棄していないから自衛隊は現状合憲だと容易に解釈できる。
これは別に無理な解釈でもないし、憲法を普通に日本語に忠実に読めば「まあそうなるな」となる。

ところが集団的自衛権には憲法普通に読んでも合憲に解釈できる余地が極めて乏しい。そもそも自国が攻撃受けてないのに戦地に向かうのは明らかに「国権の発動」だ。
そうなるとヤバいのが今まで「前項の目的を達成するための戦力不保持」には該当しないとされてきた自衛隊の合憲性まで揺らぐことだ。

つまり「前項の目的を達成するための戦力不保持」には該当しない戦力だから今まで認められていた自衛隊だが、集団的自衛権が第9条1項で禁止されていないとする根拠を見つけられないと一気に自衛隊自体も違憲になってしまう恐れがある。
要するに集団的自衛権によって自衛隊自体が違憲になってしまう

簡単に言うと、自衛隊が「国際紛争を解決するための武力行使&威嚇」と「国権の発動たる戦争」をやらない範囲においては合憲なのだが、集団的自衛権がこれに引っかかりそうで、引っかかると一気に自衛隊自体が違憲になってしまう恐れがあるという話。
そういうわけだから、現在の法案が通る前と通った後では明らかに憲法の立場や扱いが変わった(もちろん憲法が弱くなり、軽視されるようになったということ)と認識すべきだ。
「前々から憲法なんて軽視されてたじゃん」というのは違う。

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中国でこんな選挙とかないに等しいようなものですよ。

自分の意志をしっかり示せば民主主義ですから絶対に反映されます。

一生楽な方に逃げていたらこのまま何も変わりません。
戦争反対だから安保賛成です。
絶対に日本を守りたいです。
家族を、恋人を守りたいです。

自分のお金とか、税金とか自分のお金の話ばっかり考えるのはやめませんか。

みんなで一致団結して、みんなで守って頑張っていこうってなる国ですよね

反対だって大騒ぎして、機動隊の方に迷惑をかけたりですとか、警察の方のお仕事を増やしたりとか
そういうことする国じゃないですよね。


私はそこを信じたいです。
少しでも気になったら、検索してみてくれませんか。

スマホとかパソコンとか調べれば
グーグル先生です、何でも出てきます

賛成の人の意見も読んで反対の人の意見も読んで
それで、まっすぐ真ん中から考えて
右とか左とかどうでもいいです



外国の国から、「日本てちょっとおかしいよね」って笑われてること
「日本ってなんで自分の国も自分で守れないの」って言われてることに気づいて自分で調べることから始めてみませんか。


なんどでもいいます。戦争反対だから、安保賛成です。

戦争はしたくありません。

過去に戦ってくれたおじいちゃんたちのおかげで
好きなことができて、仕事ができる暮らしがあること忘れないでください。

だからもう二度と戦争はしてはいけません。

だから安保賛成です。

みなさんもまっすぐ真ん中から考えてください。
安保法案、賛成派のスピーチが正論すぎるということで話題に。 : 気団まとめ-噫無情-|嫁・浮気・メシマズ (via ashzashwash)

過去の戦争の「おかげ」とかないわ。過去に戦っていなかったら世の中もっとましだった可能性だってあるのに。こんなの正論じゃなくて、ただのいち物語。

(Source: kidan-m.com, via w210)

Aug 12
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宮崎駿の『風立ちぬ』を見ました。かなり驚いたので、感想を書きたいと思います。いわゆる”ネタバレ”がありますので、まだ見てない方は読まれない方が良いと思います。映画を見たこと前提に書きますので、まだの方には意味がわかりにくいかもしれません。

 「えっ、本当に?」というのが、『風立ちぬ』を見た僕の最初の感想でした。なんとなく美しい話として見てしまう物語の基底が、圧倒的に残酷で、これまでの宮崎映画とは次元がまったく異なっています。
 そして、たぶんこの残酷さが宮崎駿の本音なのだと思います。今回、宮崎駿は今までよりも正直に映画を作りました。それは長い付き合いで、今回主人公の声を担当した庵野秀明も言っていることなので間違いありません。何より、庵野秀明が主人公役に抜擢されたこと自体が「正直に作った」という意思表示です。庵野さんに対する宮崎監督の評価は始終一環して「正直」というものだからです。今回も「庵野は正直に生きてきた」から、その声が使いたかったと宮崎駿自身が言っています。

 この「正直」という評価は代表的庵野作品『エヴァンゲリオン』に対しても使われました。「正直に作って、何もないことを証明してしまった」と庵野秀明との対談で宮崎駿は言っています。
 ここで言う「正直」というのは、主に「心の底では考えている残酷なことに対して」正直」ということです。エヴァンゲリオンでは残酷さは正直に画面に現れていました。アスカの乗る弐号機が使徒に喰われてアスカの目から血が吹き出したりするシーンを見れば、そういうのは実にはっきりしています。

 庵野さんが「正直」ということは、宮崎さんは「正直ではない」ということですが、今まで慎重に嘘をついて来たのだと思います。子供向けにオブラートで包むようなやり方で。
 今回、宮崎監督はオブラートを3分の1くらい外しているはずです。その外し方に天才的な技巧を適用することで「正直になっても、俺にはこんなのがある」ことを証明しました。

 『風立ちぬ』という映画は、さっと表面だけ見ると「不安定な時代を生きた、天才技師である男と病を抱えた女の恋愛物語」ですが、良く見ると「美しさを追い求めることの残酷さ」を描いた映画です。
 残酷すぎて、ジブリが果たしてこんな映画を作るのだろうか、と思ってしまうくらいに残酷です。鈴木敏夫プロデューサーが宮崎駿にこの映画の企画を持ちかけたとき、宮崎監督は「映画は子供のために作るものだ」と怒ったそうですが、この映画を宮崎さんは子供にあまり見せたくないのではないでしょうか。あなたが生まれたこの世界は残酷なのだと言うことになるからです。

 主人公、堀越二郎は冒頭部でいじめっこから下級生を守る正義漢ですが、根っこの部分は人の心が分からない薄情者です。映画の端々で彼の薄情さが描かれます。特に妹が訪ねて来る時にいつも約束を忘れていて、妹を一人ずーっと待たせているところに明々白々な表れ方をしています。何時間もずっと待たせて、一言「ごめん、わすれてしまっていたよ」で済ませるのですが、妹は兄が薄情者であることを承知しているので、それに対して文句を言いません。そんな妹も、後に堀越二郎が結婚したあと、妻の菜穂子が可哀想だと泣いて訴えます。二郎の妻菜穂子に対する態度はそれくらい酷いのですが、二郎自身はそれが酷いとは全く気付いていません。二郎はそういうことが分かる人間ではないからです。

 この映画が”恋愛物語”からはみ出るのは、男の方がそういう薄情な男だからで、もっと云えば、二郎は菜穂子を別に愛しているわけではありません。二郎は菜穂子が好きですが、それは単に菜穂子が「美しい」からです。
 二郎は「美しさ」が好きです。それ以外のことにはあまり興味がありません。飛行機が好きなのも、美しいからで、彼が作りたいのは美しい飛行機です。焼き魚を食べてはその骨の曲率が「美しい」と言います。菜穂子に対しても褒め言葉は「きれいだよ」だけです。二郎は菜穂子が好きなのではなく、端的に彼女の美貌が好きなだけでした。

 僕が最初に、「あれ?」という違和感を感じたのは、計算尺を返して貰った二郎が教室を飛び出していったとき、菜穂子ではなく、菜穂子の侍女のことを想っていたときです。前情報でだいたい二郎と菜穂子が結ばれることは分かっていたので、どうして菜穂子ではなく、その侍女のことを二郎が好いているのか理解できませんでした。
 にも関わらず、後に菜穂子と再開して恋に落ちた二郎は、堂々と「はじめて会った時からあなたが好きだった」と爽やかに言います。薄情者なので、このような白い嘘を付くことには全く躊躇がありませんね。
 かつては侍女の「美しさ」が好きで、今は成長した菜穂子の「美しさ」が好きです。目の前に美しいものがあればそれが好きです。

 だから、「二郎と暮らすために、まず結核を治す」と山の療養所へ入院した菜穂子のところへ、二郎は一度も見舞いに来ません。
 それどころか、「大丈夫?心配してる」と1,2行書いた後に、(多分延々と)「今、仲間達とこんなに面白い仕事してるよー」と書いた手紙を菜穂子に送ります。二郎は自分のことしか考えられません。

 この辺りで、ようやく菜穂子は二郎が薄情であることを悟ります。
 自分が、一人の人間として「普通に」愛されているわけではなく、ただ「今のところ外見が美しい」から好きと言われているだけだと悟り、山を下りて二郎の元へやって来ます。
 ただルックスだけで、好きだと言われていても、菜穂子の方では本当に二郎のことが好きなので、くじけずに病を押して捨て身で、言わば命がけで山を下りたわけです。
 命がけで山から街へ、二郎の元へやって来て、二人は即席で結婚式を執り行い結婚しますが、仕事で忙しい二郎と、病身の菜穂子の生活は全く噛み合いません。「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」だけです。二郎が仕事をしている間、菜穂子は一人で治療も受けずにずっと布団に寝ていて、その様子を見た二郎の妹は「かわいそう」と泣いて兄に訴えます。菜穂子は二郎に美しい所を見せなくてはならないので、どこにも出かけないのに毎日化粧をしています。
 妹の訴えに対して、二郎は「僕達には時間がないから、一日一日を大事に過ごしているのだ」と答えるわけですが、これは全く頓珍漢な答えです。だって、二郎は朝から夜遅くまで仕事をしているだけで、特に菜穂子と多くの時間を過ごすわけではないからです。もしも、本当に大事にしているのであれば、菜穂子は療養所に返して、二郎が週末にでも訪ねるというスタイルにすればいいはずですが、二郎はそんなつもり毛頭ありません。病身で命を削ってだろうがなんだろうが、朝「いってらっしゃい」と美しい菜穂子に言ってもらって、一日美しい飛行機の設計をして、夜遅く帰ったらまた美しい菜穂子に「おかえり」と言ってもらう。それが彼にとっての「大事にすごす」です。菜穂子の健康も、二人の未来も、菜穂子の望みも、そんなもの知ったことではありません。

 ある日、飛行機の設計が終わり、徹夜明けで帰ってきた二郎が、菜穂子の隣にバタンキューと眠ってしまうと、菜穂子は二郎の掛けていた眼鏡を外します。美しいものを追い求める男の眼鏡を外すのは「美しい私を見るのは、もう最後だ」というサインです。
 翌朝、菜穂子は散歩に行くと嘘をついて家を去り、また山の療養所へ向かいます。これ以上、美しい状態を二郎に見せることができないくらいに病が進行したことを自分で分かっていたからです。喀血したり、しきりに咳き込んだりする姿を二郎に見せるわけにはいきません。そんなことをしたら、途端に二郎に嫌われてしまうことを菜穂子は分かっています。

 菜穂子が去った後、二郎の設計した飛行機のテスト飛行が行われます。今までは全てのテスト飛行が失敗で、急旋回などの負荷を掛けると翼が折れたり、機体が空中分解したして墜落していました。
 でも、今回は急旋回でもしようかという瞬間に、山の方へ風が吹いて、機体は美しく飛び続けます。ええ、もちろん、この山へ吹いた風は菜穂子の命が尽きたことを暗示するものです。
 二郎の飛行機は飛び続け、菜穂子は死にました。

 この後、夢の中で二郎は菜穂子に「あなたは生きて」と許されます。
 これは、アニメに身を捧げてきた宮崎監督の、自分に対する許しだと思います。

 菜穂子のことを中心に書いて来ましたが、この映画には別の大きな主題もありました。それは、ここ数ヶ月、特にベーシック・インカムのことを真剣に考えるようになってから僕が考えていたことに似ている、というか、僕とは全く反対の意見で「ピラミッドのある世界が良い」というものです。

 ピラミッドを、僕も本当に例にあげて喋っていたので、この部分が実は一番強く印象に残っています。
「ピラミッドのある世界と、ない世界、どちらがいいか」
 という問いに、二郎は、つまり宮崎駿は「ある世界」と答えます。
 僕は「ない世界」と答えます。

 何の話かというと、ピラミッドのある社会というのは、ピラミッドのような美しいものを、天才的なインスピレーションの具現化を沢山の普通の人々の苦しみが支える社会のことです。
 この映画でいえば、二郎みたいな天才が飛行機を作ることを、他の才能のない人は苦しくても支えるべきだ、という話です。菜穂子の苦しみは言うまでもありませんし、二郎が飛行機の勉強や設計、試作に使うお金もそうです。途中、二郎は親友に「飛行機の設計に使うお金で日本中の子供にご飯を食べさせることができる」と言われています。そうは言っても、友達も二郎も「じゃあ、飛行機のお金を貧しい人々に回そう」なんて思いません。自分達は恵まれていて、好きなことができてラッキー、というのが二郎達のスタンスです。自分達の作った飛行機が、戦争で使われて人が殺されるわけですが、それも大した葛藤なく「お陰で好きなことができてラッキー」という感じです。

 主人公、堀越二郎は、裕福な家庭に育ち、才能に恵まれ、大学卒業後は三菱に鳴り物入りで入って、上司にも部下にも非常に恵まれます。生きにくい時代を描いたということですが、基本的に庶民の生活と二郎は全く関係がありません。銀行の取り付け騒ぎなどで騒然としている街を通るのも、上司と一緒に車に乗ってで、窓から慌てる人々を「ふーん」と眺めているだけです。
 エコな左翼人みたいなイメージにまみれていますが、宮崎監督自身、裕福な家庭に育って学習院を出ています。最終的なところでは、宮崎さんのメンタリティはそういうところに立脚しているのだと思います。でも、そういうのはポリティカリー・コレクトではないので、今まで言わなかった。

 才能溢れた人が傍若無人に振る舞い美しさを追求すること。他の人々、特に庶民がその犠牲になること。そういうものが、残酷だけど、でも残酷さ故に余計に美しいのだという悪魔の囁き、宮崎駿の本音を、この映画は大声ではないものの、ついに小さな声で押し出したものだと思いました

『風立ちぬ』を見て驚いたこと
これ以上付け足すことは何もないほど完璧な評 (via deusnatura)

(via highlandvalley)

Jul 11
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Jul 02
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(Source: bowi)

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bowi:
“第7話 其れが其の~編み盆栽なのですけれどね。- modern fart
”

bowi:

第7話 其れが其の~編み盆栽なのですけれどね。- modern fart  

Jun 09
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learnart:

Keisuke Asano - New York 2014 shot by Cristino

(Source: lucascristino, via cocojin)

May 22
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Q;梵語の薄伽梵・婆伽梵(バカボン;バカヴァット;バギャボン)とは?A;サンスクリット語でブッダ(シャカ;釈迦牟尼)のこと、インドでは自己の意識を自由にあやつる「天才」を意味したり、貴人の尊称だそうです。 ところで赤塚不二夫の、「天才バカボン」は、同じ音である「バギャボン」に似ていると、以前から思っていました。多くの人に親しまれた赤塚不二夫の漫画に、「天才バカボン」というキャラクターがいます。バカボン父子の言動が私たちを、楽しませてくれたヒット漫画でした。 その名前は(古代インドの言葉:バカボン;バカヴァット;バギャボン)を、意識して付けたわけではなく、たぶん幼児を親しんで呼ぶ「馬鹿なボン(坊や;坊ちゃん)」という意味だろうと、最初はそう思っていました!。しかし、タイトルのことは、テレビ番組の「トリビアの泉」で、以下のように紹介されていました。タイトルおよび、作中のキャラクター名である「バカボン」の語源は、現在公式には梵語の「薄伽梵」(バギャボン・釈迦如来)に由来するとされています。これはテレビ番組「トリビアの泉」で紹介されました。また、バカボンパパの決まり文句「これでいいのだ」も、「覚りの境地」の言葉であるようで、何時も竹箒を持ったレレレのおじさんも、お釈迦様のお弟子の一人で、「掃除」で悟りをひらいたチューラパンタカ(周利槃特=しゅりはんどく) を、モデルにしているようです。なおタイトルに「バカボン」とあるものの、当作品において主に活躍するのはその名を冠したキャラクター・バカボンではなく、父親の「バカボンのパパ」です。実際バカボンが登場しない話が数話ある。(以上「トリビアの泉」より)だから「バカボン」とは、実際は「バカボンのパパ」をさし、言動は「覚りの境地」を持った「仏陀」のことを、笑いに表そうとしたのでしようか?それはさておいて、「バカボン」の元祖は、「ブッダ;釈迦」です。「天才バカボン」とは正反対になります。薄伽梵とは古代インドの梵語、バカヴァットの音訳で、バカボン・バギャボンとなります。 このように古代インド語(サンスクリット)を、そのまま中国の漢字で音写した語は、 「仏陀」「阿羅漢;略して羅漢」「菩提」「旦那」などたくさんあり、簿伽梵もそのひとつです。「簿伽梵」を漢訳すれば世尊となります。インドでは一般に「世に尊ばれる人」をこう呼んでいたようです。「これでいいのだ!」は、納得した深い悟りの境地に通じた言葉のようです!? バカボンのパパは、口癖のように「・・・なのだ!」「これでいいのだ!」を連発します。 これ作者の言う「仏のように深い悟りを得た。」言葉なのかも知れません 。「・・・なのだ!」「これでいいのだ!」で、後は悩まない。それがバカボンパパの口癖それは味のある物事の本質を、適切に言い表した言葉といえるかも知れません。 その前提にあるのは、やはり「苦しみ・悩み」を超越した心のように思います。 人はだれもが自分の生きている今が、「・・・なのだ!」「これでいいのだ」と納得できれば、全ての出来事をあるがままに前向きに肯定でき、「・・・なのだ!」「これでいいのだ!」と、心から納得されるのであればれば、後退することなく、前進して行けると思います。 それは悟りの境地なのかも?一家を守る良妻賢母型で、基本的には穏やかな性格のママ。 そのママは「あきれた・・・!」「しょうがないパパね~!」で、パパたちに本気で怒ることはほとんどなく見守ります。タレントのタモリさんが、赤塚不二夫先生の告別式の時、弔辞を述べた内容は、感動的な内容だったようです。『あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。
May 20
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nikeozaki:

“Star Force GO!“

8 x 8 (each) ink & watercolor 2015

Artwork by Nike Ozaki

(Source: nikeozaki, via cocojin)